2009年10月2日金曜日

モーターショー

日本でのマセラテイ・ランボルギーニの事をお話しましょう・・・
1991年のモーターショウの記録が残って居たので写真と共にご紹介致しましょう。
当時、バブルが弾けたとは言え、まだまだ輸入車市場は健在であった。
特に高額車輌の売れ行きは好調で、各都市で行われた輸入車ショウは華やかであった。
今回は91年大阪モーターショウの写真と共にご紹介致しましょう。
各輸入元(インポーター)は展示ブースにも大変力を入れていました。



バブル期に東京モーターショウでの某インポーターブースは、
2000万円掛けられた・・・2週間の開催の為に掛かる費用は数千万円とも言われていた。
ここで紹介するブースは、勿論当時ランチア・マセラテイ・ランボルギーニのインポーター、
ガレーヂ伊田利屋である。

現在はランチアのみのインポータであり。
アルファ・ロメオのディラーもやっている見たいである。
現在マセラテイは、フェラーリのインポーターでもあるコーンズ・アンド・カンパニーリミテッドである。




大阪モーターショウの搬入風景 当時、Newデ・トマソ・パンテーラもインポーターとしてやっていた!






当時はさすがにブガテイやチゼタも展示されていた。



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2009年9月17日木曜日

秘蔵写真!

ではここで、マセラテイとランボルギーニのその他の写真を紹介しましょう。
最初は、アレキサンドロ・デ・トマソとその息子!サンチャゴ・デ・トマソ・・・
これは、各国のインポーターとのミーティングでスピーチをするアレキサンドロ・デ・トマソ!次は、翌日我々を見送ってくれるサンチャゴ・デ・トマソ!
後するが、マセラテイ社の工場内部を紹介しましょう。
新車のボディパーツが無造作に置かれている。また、奥にはレストア中の車両があったり。歴代のエンジン群が展示してある。
マセラテイ社の歴史を語るクラシックモデルも展示・・・?
無造作に並んでいた。
次はランボルギーニ社である。
この、置物がランボルギーニのシンボルマークの原型か?
工場内には生産中のディアブロがずらり並んでいる!
帰りにプレゼントされたディアブロのミニカー!イエロー(ジアッラ)とレッド(ロッソ)の2台を頂いた・・・
私の手元にはレッド(ロッソ)が今もコレクションとしてミニカーの棚に展示されている。
最後に工場横の通路には、多分炎上したカウンタックの残骸が、オブジェぽく展示?置いてある。
この、写真はビデオ映像からの抜粋であるがHP上に動画を配信したいと思い現在製作中である。
乞うご期待!

続く・・・

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2009年9月10日木曜日

ランボルギーニ社、潜入レポート!

いよいよランボルギーニ社へ潜入!

いやいやちゃんと許可を取って入場!

正門の所でボディチェックを受け、社屋内へ・・・

勿論、ビデオにカメラは没収!

社屋入り口から入るとまず目に入ったのがランボルギーニの大きなシンボルマーク水牛!

その横には、シルバーのカウンタックLP500アニバーサリーが展示してあった。

階段を上がり事務所内へ・・・

出迎えてくれたのはランボルギーニ社のテストドライバー!

当時ディアブロの生産中で一日に2台完成するらしい・・・


午前と午後に1台づつ完成車をアウトストラーダに持って行き
時速300キロオーバーでテスト合格だそうだ!

何とも簡単なテストである。
それを日本のオーナーは、よく出しても200キロ前後位出して喜んでいる。

その内、話の流れで時期モデルのディアブロVTを見せて貰える事になった!

やはり、写真は必要だと説明すると内装及び変更点のみの撮影許可が下りたので、

早々に正門の守衛室に出向きカメラとビデオを回収し撮影に入った。

VTの変更点の撮影もそこそこで工場内の撮影はビデオONの状態で、ビデオを脇に抱え自然に撮影した・・・。

縦横数十台の各色整然と並ぶディアブロ達!
勇壮である。

生産ラインから次はパーツ倉庫、
そして最終ボディに搭載される前のエンジンテストルーム!
ここでは、エンジン単体で三日三晩全開で回し続けたエンジンのデータを取っているらしい・・・
そして、合格なら車体本体に積み込み、
最後に先ほど紹介したテストラン!
全てが終ったら出荷と言う運びで有る。
新車を買ったオーナは大切に大切に乗り、
エンジンの慣らし運転まで行いボディーをピッカピカに・・・
オーナーは大変である・・・
既にエンジンは全開で三日三晩回っているし300キロ出る事も確認済み!

これが、世界のランボルギーニ社で有る・・・!

続く・・・

2009年9月7日月曜日

世界最高の生ハム&ランボルギーニ!

次は、ランボルギーニ・・・
と、行きたい所なんですが・・・
途中寄り道をして・・・

イタリアと言えばワインと生ハム!
プロシュット・エ・メローネ!(生ハムのメロン添え)
プロシュット、プロシュット!生ハムのおどり食い・・・
そんなモンある訳無いだろう・・・
早々にアウトストラーダをぶっ飛ばしパルマへ・・・
ドイツのアウトバーンに対しイタリアではやはり速度無制限のアウトストラーダ!
片側3車線の右端をコンボイみたいな大型車が時速160キロ位で走行しているのに対し
我々は、200キロオーバーで快調に走行していた!
その横の高速車線を白のアルファ164がぶち抜いていく・・・
見ればドライバーは白髪の老婆!
さすがイタリアーノ!
お婆さんまでが最高速!
脱帽です。

パルマの生ハムは世界一・・・
パルマに着いてから、しばし散策し道行く人にパルマで美味いレストランを聞くと、
大半の人が教えてくれたレストラン〇〇〇に行く事に決定!
日本語のメニューは無くても英語版のメニューを見ながらオーダー!

奥のキッチンではブロックをスライスする光景が・・・
来ました来ました。
プロシュット・エ・メローネ!
世界一の生ハム!
メロンと共に一口!
ん~!
塩辛い・・・
だが、美味い・・・
見た目は乾いた様に見えるが口の中では、トロトロ!
メロンの甘味が最高に引き立つ塩辛さ!
やっぱ世界一美味い!
次回はランボルギーニ社の内部のビデオ映像からピッキングした内部写真を公開!

続く・・・

2009年9月2日水曜日

マセラテイとデ・トマソは親子!

其の弐

マセラテイ社とデ・トマソ社は親子!
当時マセラテイ社の社長はアレキサンドロ・デ・トマソでデ・トマソ社の社長は、
息子のサンチャゴ・デ・トマソである。
父親のアレキサンドロ・デ・トマソが倒れてフィアット・グループに株を売却するまでは、
この様な関係に有った!
88年前後にニューパンテーラが発表された!
その内装は以前に比べるとイタリア調にはなった物のまだまだ、アメリカンで有った!
面白いのはエアコンディショナーのタッチパネルがマセラテイと共通で・・・
それも縦にレイアウトされていた事だ!
文字はそのまま・・・
横を向いていた・・・!
日本では考えられない・・・!
いや、世界でもそんな話は聞いた事が無い!
さすがイタリアンカー・・・!
恐るべし・・・!
後に、マセラテイの経営はフェラーリに移管される事になる!
厳密に言えば株の保有比率がマセラテイは、51%フィアットグループが49%で有ったと聞いている。その当時、フィアットグループはランチア・マセラテイ・アルファロメオ・フェラーリで有る。
フィアットは言うまでも無いだろう・・・!
20年近く前の記憶なので少し間違いが有るかも知れないがお許し頂きたい。
本日の最後に日本での正式な呼び名としてLANCIAはランチア!
よくランチャ、ランチャと聞こえてくるがランチアである。
MASERATIはマセラテイ。マセラッティーとかマゼラティーと言うが
あえてこのブログでの表記はマセラテイとさせて頂きたい。
これは、その当時ランチア・マセラテイを輸入していたガレーヂ伊田利屋の正式なカタログ表記での基準であった為である。

続く・・・

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イタリア車に出会う!

Ferrariを語る人は多く居ますが・・・
私は、23年間輸入車の業界に居て体験した事を皆さんにお話したいと思います。

まずは、私が携って来たイタリア車に付いてお話します。

ランチア、マセラテイ、デ・トマソ、ランボルギーニに付いてお話しましょう。

私が26歳の時、マセラテイのビィトルボ425iに乗る事になりました。
ドッカンターボのビィトルボは(ビ・ターボ)ツインターボと言う意味で
そのまま、名前になると言うイタリアらしいネーミングである。

そのほか、2800ccになって430・・・
4ドアの2800ccと言うのに430。
その頃228と言う車名のマセラテイが有ったからで有る・・・
2・24Vと言う本国のみ販売のマセラテイは2ドア24バルブの意味で日本では、
222E、222SE、222SRと言うマイナーモデルを販売していた。
変り種としてはスパイダーザガート・カリフなどが有った。

スパーダーザガートは、2ドアオープンで手動で開閉しレザートップ。
ドアより後ろがザガートデザインの為、その名を付けた。
ここまでが、V6モデルでありこの後、V8モデルが投入される。

シャマルである。

V8・6MT・・・ブリスターフェンダー付きの最強モデルで有った。
マセラテイの内装は全て共通・・・
レザーとアルカンタラをふんだんに使いウッドは全て生木!

ジャガーのウッドなんかは、鉄板にスライスした木を4重に張り合わせウッドパネルとしているが、
マセラテイは全て本木である。

続く・・・

2009年8月27日木曜日

昭和30年代中頃! Episode9

本日の投稿は、堀川を渡る風景!

右は、車内から運転士!





次は、堀川を渡るところ・・・
少し写真に頼りすぎているブログになってきたので
次回からは、少し変えて行こうかと思っています。
いよいよ動画も投稿しようと思っています。
つづく・・・


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2009年8月25日火曜日

昭和30年代中頃! Episode8

本日の写真は、ちんちん電車の車内・・・



凄く揺れている車内は、路面電車特有・・・


動画では、つり革が凄く揺れている映像が映っています。


次は、北野車庫内の風景です。

今、北野車庫跡は図書館かコミュニティセンター

みたいになっているらしい・・・

正確な所は、確認していませんが・・・・

まだまだ、これからも写真を投稿していきたいと思っています。

続く・・・

2009年8月24日月曜日

昭和30年代中頃! Episode7

サヨナラ北野線!

この写真も8ミリ映像からピックアップしました。

実際に走行している映像は、
後日アップ出来そうなら頑張ってみます。

後、記憶に有るのは西大路通りに
トロリーバスが走っていた事も思い出されます。

残念ながら父撮影の8ミリ映像には映っていませんが・・・

次回は、北野車庫内の映像、走行中の車内の画像も

アップしたいと思います。

続く・・・

2009年8月23日日曜日

昭和30年代中頃! Episode6


いよいよ、ちんちん電車の写真をアップする準備が
出来ました。
これは、堀川中立売りから南向きに撮られた映像を
クリップした物です。
現在は、堀川も道路になっておりとても想像が出来ない
風景ですね・・・
映像的には、5分前後の動画ですが、他にもちんちん電車の
花電車や市電と交差する所や、走行中の車内映像!
北野車庫での映像なのが記録されています。
父親はマニアだったのでしょうか・・・
つづく・・・

2009年8月22日土曜日

昭和30年代中頃! Episode5

子供の頃の思い出の中でもう一つ・・・
ちんちん電車があります。

そう京都は、日本で初めて路面電車としてちんちん電車が走っていた!
そして、その貴重な映像が我家には残っています。

元来、私の父親は、機械物が好きで当時としては、珍しく
8ミリ撮影機を持っていました。

私が、生まれた時から数年間の記録を父は残してくれていたのである。
今から50年前の映像である・・・

多分、3歳位の頃でしょう。
近所の子供達と一緒にちんちん電車に乗っている映像や、
堀川通りから中立売通りに曲がる走る映像・・・
当時の北野車庫での映像など、結構レアな記録である・・・

千本通りでは、ちんちん電車に代わる市電と交差する様子も
撮影されていました。

また、伊丹空港では、車で滑走路のそばまで行き、ベンチから
飛行機の離発着を見学できると言う、今では考えられない
映像も撮影されていました。

今は、その8ミリフィルムは有りませんが、後にVHSが普及
し始めた頃、無料で8ミリ映像からVHSに移してくれるサービスが
富士フィルムでやっていたので現在は、VHSでの保存です。

コンピューターにその映像を取り込みデジタル化もしてあるので
この、ブログで紹介したいと思っております。

つづく・・・

2009年8月21日金曜日

昭和30年代中頃! Episode4

今日、8月は父親の誕生月である・・・
父は、京都市交通局の職員で京都市営バスのドライバーで有った。
その頃、ワンマンカーでは無く車掌さんがドライバーとは別に搭乗していた。
その昔は、女性の車掌さんが大半だったそうで有るがこの時は、
男性の車掌さんが父とペアを組んでいた。
ある日、夏休みだった私に、今日一日バスに乗るかと言ってきた。
朝、一緒に出勤、父の運転するバスに乗車・・・
一番前の席を陣取り一日のルート・・・
厳密には、午前と午後2ルート・・・
父親の運転するバスに一日乗り・・・
一日京都観光気分でした・・・
昼からのコースを走り、家の近くの停留所まで来た時、
ここで降りなさいと父親が声を掛けてくれて今日の一日観光は、終了!
楽しい一日でした。

つづく・・・

2009年8月20日木曜日

昭和30年代中頃! Episode3

子供の遊び方にもルールが有った・・・

京都の町内は20軒~30軒位、単位が一つの町内として区切られている様に
記憶している。
8割の家庭には子供がおり、いつも町内には子供の声がしていた。
そして、年功序列で全員で遊んでいました。
小学校6年生から5年生、4年生・・・
1年生までが一つのチームとして遊んでいました。
ちょうど兄が6年生の頃、町内の子供達を引き連れいつも
遊んでいた頃、私は幼稚園児で家の前で遊んでいる時は、
走でもないのですが、どこかへ場所を変え遊びに行くときは、
いつも、留守番でした。
そう、小さい子供は、足手まとい・・・
悲しい思いを何度もした想い出があります・・・

そんなある日、一度だけ兄が、連れて行ってくれた事が有ります。
北野天満宮の奥に深さ2メートル位の川?用水路・・・
ほとんど水が無かった事も有って、ここに降りて向い岸まで行くと言う・・・
幼稚園児の私には、未知への冒険・・・
とてもわくわくドキドキした事を覚えています。
こんな、時代でもすごく夢が有った事を、思い出す今日この頃・・・

つづく・・・

2009年8月19日水曜日

昭和30年代中頃! Episode2

昭和30年中頃の楽しみは四季の行事がはっきりしていたと思います。
春には、遠足があり夏休みが済むと秋の大運動会にと・・・
今もそれは変わらないと思いますが・・・
当時、テレビゲームも無い携帯もない時代、ましてテレビも白黒・・・
楽しみ方が限られていた時代、行事が来るのを楽しみにしていた記憶が有ります。
それでも京都の北野天満宮は毎月25日には、天神さんと言って夜店が出て賑わっていました。
これも、楽しみの一つでした。
この頃、兄が当時でも有ったヒヨコ釣りでヒヨコを一羽持ち帰りました。
その後、ニワトリまで成長した事は、記憶しています。
が、有る日突然そのニワトリの記憶が有りません・・・
ただ、すき焼きの晩の翌日から居なくなった事が気になっていました。
子供だった私には理由が分かりませんでした。
はっはっは~
京都では、20軒程が町内の単位で学校の運動会とは別に、
町内対抗の運動会が有りました。
朝から、プラカードの様な物を持ち小学校の学区内を全町内を練り歩き最終、
小学校に到着!
運動会が始まると言う何とも優雅な時代だった事を思い出しました。
この、ブログを書いているとどんどんその当時の忘れていた事が思い出され
今、凄く懐かしさと感動で胸がいっぱいになっています。
よき時代でした。

つづく・・・。

2009年8月18日火曜日

昭和30年代中頃! Episode1

はじめて、ブログに挑戦します。

私が、生まれた昭和30年代中頃!
日本が立直ろうとしている真っ最中!
そう、高度成長期に入ろうとしている頃です。
ちょうど、三丁目の夕日の映画そのものでした。
まだまだ、走っている車も少なく舗装された道路もあまり無かった時代です。

娯楽も少なく、テレビは勿論白黒だし・・・
テレビゲームも無し、コンピューターもインターネットも無し!
今、思えばとんでもない時代だったと言うか・・・
現代が凄すぎる・・・
まぁ昔を懐かしみながらゆっくりと当時を思い出しながらブログを進めて行こうと思っています。

まずは、子供の頃の遊びから話したいと思います。
当時、私達の遊び場と言えば家の前の路地・・・
袋小路になっていた事も有り、勿論・・・地道!
全てがここから始まっています。
かけっこや、鬼ごっこ・・・
三角ベースにドッチボール・・・
ここが私達子供のホームグラウンド・・・

たまに、自転車に乗った人が通る位で安全、安全!
近くにもお寺の境内を開放した公園が有ったりしました。
いつも、身体を使った遊びで、家の中で遊ぶ事はあまり無かった様に記憶しています。
最近の子供とは違いますね・・・
外で、遊ぶしか無かったのも現実ですけれど・・・

つづく・・・。